1980年代前半のポップミュージックを最も象徴するものはシンセとドラム・マシーンのサウンドでした。R&Bシーンについても同様でシンセ・ファンクが流行していました。ですが、1985年頃にはそれも一段落します。次のダンスサウンドの核となるニュージャック・スウィングのブームは1987年頃からなので、85年、86年は言わば「凪(なぎ)」の時期でした。凪ということは、完全な無風状態だったかというと決してそうではありません。まさに”静かな嵐(クワイエット・ストーム)”が吹いていたのです。(上手い!とつい自画自賛してしまいました)
この時代の代表的名盤、アニタ・ベイカーの「ラプチュア」のプロデューサーであるマイケル・J・パウエルはアルバムを作った頃の時代についてこう語っています。
「このようなサウンドの音楽を当時ラジオでまったく聴くことはなかった。最も近かったのがシャーデーのファースト(「ダイアモンド・ライフ」)だ。あの頃の音楽はディスコの流れから来ていて、誰もがアップテンポの曲ばかりやっていた。(そんな中で)僕たちはバラードをひっさげて登場した。僕が思うにみんなそういう音楽をすごく欲しがっていたんだと思う」
ただ、シャーデー同様、彼らもそのタイミングを”狙って”バラード路線にしたわけではありません。アーティストや作り手がもともとそういう音楽が好きで、何よりボーカルの声質やニュアンスがまさにそういう音楽にピッタリだったからで、それがたまたま時流にどんぴしゃにハマったわけです。
デトロイトで人気のチャプター8というバンドをやっていたマイケルは、他のバンド・メンバーが地元のクラブでいい女性シンガーを見たという話を聞き、さっそく彼女のライヴを見てすぐにバンドに加わらないかと誘います。彼女も快諾し、ファースト・アルバムを作ることになります。
そして、1983年に自身のファースト・アルバム「ソングストレス」を発表します。タイトルは”歌姫”という意味です。リリースしたのはビヴァリー・グレン・レコードというインディーズですが、ボビー・ウーマックの「THE POET」「THE POET Ⅱ」という名盤もリリースしている侮れないレーベルです。
このアルバムの制作にはマイケルは関わっていませんが、曲は1曲提供していてシングルにもなりました。
そのときに、アニタは自分のアルバム用に考えている曲を2曲持っていて、マイケルはそのアレンジをすることから作業を始めます。そのうちの1曲は「ラプチュア」の中の代表曲の一つになるこの曲でした。
「ラプチュア」のプロデュースについて、マイケルはオケを完全に作ってからアニタの歌を入れたらしいので、オケのレコーディングに関しては、演奏しているミュージシャンが違うだけで、音楽的にはマイケルとしては特に違いを感じていなかったようです。 ずっとバンド演奏でレコーディングしていたアーティストの多くが、さすがにドラムマシーンを導入し始めていた時期なので、これは完全な揺り戻し、時流への反動と言っていいでしょう。
同時期のアーバンなR&B、例えばカシーフやポール・ローレンスなどは、シンセ・ファンクと同じサウンド、編成でバラードをやっていたので、実はアニタやシャーデーとは成り立ちは違います。(聴く方はそんなもん関係ないですが、、)
シンセ・ファンクの延長線上、成熟したシンセ・ファンクとしてのメロウ・グルーヴ(フレディ・ジャクソンなどハッシュ勢など)と、シンセ・ファンクへの反動、揺り戻しとしてのヒューマンでやや懐古的なソウル・ミュージック(シャーデー、アニタ)と捉える事が出来ると思います。
大豊作だった85年〜86年のアーバン・アダルトR&Bには、成り立ちとしては2系統の流れがあったというのが今回の僕の結論です。
そして、シャーデー、アニタの大成功で、大人な女性バラード・シンガーが
この時代の代表的名盤、アニタ・ベイカーの「ラプチュア」のプロデューサーであるマイケル・J・パウエルはアルバムを作った頃の時代についてこう語っています。
「このようなサウンドの音楽を当時ラジオでまったく聴くことはなかった。最も近かったのがシャーデーのファースト(「ダイアモンド・ライフ」)だ。あの頃の音楽はディスコの流れから来ていて、誰もがアップテンポの曲ばかりやっていた。(そんな中で)僕たちはバラードをひっさげて登場した。僕が思うにみんなそういう音楽をすごく欲しがっていたんだと思う」
ただ、シャーデー同様、彼らもそのタイミングを”狙って”バラード路線にしたわけではありません。アーティストや作り手がもともとそういう音楽が好きで、何よりボーカルの声質やニュアンスがまさにそういう音楽にピッタリだったからで、それがたまたま時流にどんぴしゃにハマったわけです。
デトロイトで人気のチャプター8というバンドをやっていたマイケルは、他のバンド・メンバーが地元のクラブでいい女性シンガーを見たという話を聞き、さっそく彼女のライヴを見てすぐにバンドに加わらないかと誘います。彼女も快諾し、ファースト・アルバムを作ることになります。
そして、1983年に自身のファースト・アルバム「ソングストレス」を発表します。タイトルは”歌姫”という意味です。リリースしたのはビヴァリー・グレン・レコードというインディーズですが、ボビー・ウーマックの「THE POET」「THE POET Ⅱ」という名盤もリリースしている侮れないレーベルです。
このアルバムの制作にはマイケルは関わっていませんが、曲は1曲提供していてシングルにもなりました。
そのときに、アニタは自分のアルバム用に考えている曲を2曲持っていて、マイケルはそのアレンジをすることから作業を始めます。そのうちの1曲は「ラプチュア」の中の代表曲の一つになるこの曲でした。
「ラプチュア」のプロデュースについて、マイケルはオケを完全に作ってからアニタの歌を入れたらしいので、オケのレコーディングに関しては、演奏しているミュージシャンが違うだけで、音楽的にはマイケルとしては特に違いを感じていなかったようです。 ずっとバンド演奏でレコーディングしていたアーティストの多くが、さすがにドラムマシーンを導入し始めていた時期なので、これは完全な揺り戻し、時流への反動と言っていいでしょう。
同時期のアーバンなR&B、例えばカシーフやポール・ローレンスなどは、シンセ・ファンクと同じサウンド、編成でバラードをやっていたので、実はアニタやシャーデーとは成り立ちは違います。(聴く方はそんなもん関係ないですが、、)
シンセ・ファンクの延長線上、成熟したシンセ・ファンクとしてのメロウ・グルーヴ(フレディ・ジャクソンなどハッシュ勢など)と、シンセ・ファンクへの反動、揺り戻しとしてのヒューマンでやや懐古的なソウル・ミュージック(シャーデー、アニタ)と捉える事が出来ると思います。
大豊作だった85年〜86年のアーバン・アダルトR&Bには、成り立ちとしては2系統の流れがあったというのが今回の僕の結論です。
そして、シャーデー、アニタの大成功で、大人な女性バラード・シンガーが